Posts (page 2)
うちの業種、流派みたいなものがあるように思います。考え方というか。
さぶっ。日に日に寒さが増してますね。
今週はほとんど朝寝だったので、この時間の寒さはほんとに身にしみる。ひぃやぁ。
居間で寝てしまい、あまりの寒さでさっきおきました。おはようございます。
さぁ、早起きついでに、今週最後の締め切り(もう遅れてるけど。ガハハ)をやっつけますぜ。
寒い朝に珈琲をいれてみた。湯気にほっとするも、すぐにマグが冷めていく。両手でホールドして、温かさを丁寧に楽しむ。あぁー、もうちっとで今週やんなきゃいけんことを終わる。あの角を曲がれば茶屋がある。
昔、中学生のころ、通信兵の訓練みたいにうちの部活は、無線機・重層バッテリ・アンテナを担いで山に登るんですね。中学生にとってあの機材は、エジプト人が石を素手で運ぶみたいな感覚だった。当時のアポーな先輩が、富士山登るっていいだして、軍隊みたいな部活&ノリに身まかせてやってしまう、ヤンキーとオタクの集合体みたいな文化部の多数勢力だったから、登ったわけですよ。アポー先輩(ヤンキー)は何を勘違いしたか、「登るなら下からだ」とかいいだして、河口湖から歩き始めたのです。
くねくねと裾野を歩く、無線機背負った中学生。奴隷ですよ、絵的に!
軍隊みたいな部活で、中三は軍曹みたいな下士官のトップで、ぼくら中一を励ますわけね。
「あとちょっとだ! あの角を曲がれば茶屋がある!」
これがないんだ。
なにもない。
角を曲がっても曲がっても、何もない。
見えるのは霧。
餌つられて、何もない時の喪失感。
動物的な疲れが全身の力を喪失させます。
結局、五合目まで徒歩で登って、終了。
バスで降りる・・・。
普通は、ここから登る、、、んだよね。
バスから降りてくるおばちゃんたちに、「あらあら」って言われたのが印象的。
でも「あの角」っていうすんごいリアリティがわずかに戦意高揚するのもわかった。だから、たまに自分に、「このシートを書き終えれば、チョコ食べていい」とか「15分睡眠を与える」とか、「茶屋」的なものをご褒美してます。
この辺に昔、貧民街があったのだが…。
ようやく赤くなりはじめましたね。
反対に、松山では菜の花が咲いたとか。
サイケデリックな世界になりつつある。
今日も家で仕事。もう締め切りまでぜんっぜん時間がないから、意識の中から無駄なものを排除して、見るべきものを選択する。これはとてもむずかしいことですね。書きながら煙草をくゆらせると、ぼくの場合、意識が散漫になります。だから吸うなら窓辺で。
外をみると、秋の夕暮れ。あー、散歩したい。今はポラで撮るだけにしておこう。
ひとつめが終わって、これからちょっと散歩します。
明日の朝までにあと2つ。
この生活はいつまで続くんだろう。それと、いったい誰が救ってくれるっていうんだ!
まぁ、無理な相談だね。いつでも辞められるけど、辞めた後、どんな生活をするのか皆目見当がつかない。これ以外の選択肢がないってことなんだと思う。自分で自分を救う道を探すしかないのです。
宗教を脱却する方法として哲学を読みつづけていたら、哲学はだんだん理性の用い方に特化していき。さて、自分を支えるものはなんなんだろうか、ということになった。
出発点はそこであっても哲学は宗教の代用品にはならない。
宗教はアルコールのようなものだ。酔って忘れるもよし、蘊蓄を語るもよし。支えてくれるにはあまりに水もの。いい酒もあれば、出処のわからぬメチルもある。
海外での仕事や旅行、日本での仕事でもいろんな会社にお邪魔するようになって、ひとのよりどころって、こんなにも多様なのか、と驚く。それは、原始的な信念から完成された信仰までさまざまな苔となってそのひとの内蔵にこびりついたものだ。
日本人には宗教がない。完成された信仰という意味ではないのかもしれない。そういう絶対的な正しいことをつくらないことが、苔となって染み着いている。それが宗教となっている。酔って忘れるほうの宗教が、形はないけど、確かにあるように思う。
なぜそれが宗教ではないと思われるのかというと、たぶんわたしたちの原始的な信念が、現在性しかなく、過去や未来への予言を含んでいないからではないか。
予言は必要だ。生きている上で一番、不安なのは将来。生きている上で一番、自分を縛り付けるのは過去。だから、その過去をなんらかの形に清算してくれる未来の予言がないと、不安の解決方法が見つからない。わたしたちの信念は「今、なんとかなっているなら、いいじゃないか」というところに落ち着く。今、なんとかするために、それぞれで自分を規定せよ、という信念だ。だからKYに対する、圧倒的な異物に対する排除が発生するのではないか。
自分が異物であるように感じることが多い。だからわたしたちの信念を、同じく信じることができない。
代用品を探してニーチェとバタイユとフーコーに走ったわけだ。しかし、それらが授けてくれたのは考える道具で、支えではない。考える道具をつかって自分で考えることを教えてくれた。
で、今日は疲れた。ひとり感に窒息しそうだった。
強迫性のなにかがあるので、最近はそういうのが鼻毛抜きに現れてるらしい。
呑みながら、仲の良いバーテンダーさん(moogを昔持ってたひと)に言われた。そんなに抜いてるらしい。みっともない。
---
アップして気づきましたが、宗教の話、あやうい話でした。
ご安心ください。
小乗仏教の勉強をし始めただけです。
タイの、あの感じが謎で、かつ気に入ってしまって。
今、背負っているものが、ずーっと先の、何度か輪廻した後に、清算されて、きっと平安があるんじゃないかって思うような、そういうふうに思えれば、ちょっと軽くなれるんじゃないか、と。
そうそう、ハッセルさんで撮った、どうでもいいよな仏さんをアップしなきゃ。今週を乗り越えたら、週末たのしくスキャンしようかと思います。
反射エフェクトに感激し、VAIO type-P購入以来、Apple濃度が低下していることも鑑み、PowerPointをやめてKeynoteを使おうとしています。
MS Pゴシックの問題は昨晩解決できて、Office for Macの評価版を一回いれてしまえば、なんのことはない、使えた。
重いファイルを開くと、さすがに時間がかかりますね。でもそれは仕方ない。資料の作成自体は、パワポよりもイラレに近い感覚かしら。ツールの位置を覚えていないから、使い慣れたパワポに比べて、作業に時間がかかってしまいました。慣れていけば大丈夫でしょう。
おなじMicrosoft Officeなのに、win版とmac版で操作性が全然違う時代があって、その後遺症で今もmacにはインストールしたくない。Open Officeだと、スプレッドシートは問題ないが、パワポのような作業は、かなり無理がありました。Keynoteなら、さらにエフェクト各種が非常に良いです。
仕事しながらのBGMは、間がさしてHOUSE NATIONのコンピ聴いているという…。嫌いじゃないけど、こればかり聴いているのはしんどいと思う性分。日常に明るさが足りないから補充する程度のこと。
